昭和五十七年九月四日 朝の御理解
御理解第九十四節
信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするよう なことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。
大変難しい御教えでございますが、やはり難しい事だからといってなげやりしては信心 は進みません。やはり、難しいと思う事柄に取り組んで、段々おかげを受けていかなければなりません。
これは、お道の教師に対する御理解だと思います。信者に不同の扱いをすなと、これは 私がここで長年の体験から思うてみますのに、この人は良い人だという人が、ま、極端にいえば【 】な言葉ですけども悪人になったり、この人はつまらんように見えたり悪人に見えたりするような人でも、ひとたび信心に心掛けさせてもろうて、もう見違えるような信心になっていく。どこまでも、いわゆる信心させて頂く者は肉眼をおいて心眼を開けとおおせられますから人間心で見たり、人間、肉眼で見た目はではわからんです。
悪人だなあこの人はと思う人が一心発起、いうならば善人に、いうならば善人どころか それこそ生神を目指して進まれるといったような方もありますからね。そういうところを私共がふんまえてというか分からしてもらうと、人間誰しも一視同仁神の氏子としての見方が出来るようになる。やはり難しいです、成程生まれつきおとなしい人もありゃ、でない人もあるね。確かに心優しい人もありゃ、心が何か知らんひねくれたような人もありますけれど、けれどもその人達が一度信心に目覚めるとか、信心になってまいります時にどれが善人やら悪人やらわからないね。
どうにも手の付けようにもなかった、それこそ入れ墨者とでも言いましょうかね、身体 にいっぱいその入れ墨をしておるというような人達が、人が一度信心に目覚めてお道の教師を志し、本部ではそれを受け入れようとしなかったけれども時の教監でしたでしょうか、その自分が身元を引き受けるからと言うので、その人を学院にいれた。そして、今、ま、ある教会の教会長として、人が助かる教会としておかげ受けておられるという人がありますからね。
だから、その悪人とか善人とかね、この人は御供えが出来るから良い信者とか、御供え が出来んからどうと言ったような事で人を見よったら、やっぱ自分自身も助からんし、教会に比礼もたたん。これは教師だけの事じゃありません。難しいけれどもです、そういうもう兎に角、あれは根性が悪いと言うけれども、その根性が良い面に出てくる時に人の真似の出来んような信心も出来る場合がございますね。
これは、私共信心させて頂く者の修行の焦点というものがね。昨日の梅の実会で皆さん のお話を聞きましたが、まあだ信心は、いわゆる若い方ですけれども、昨日一日の今日は梅の実会に出られないような問題があったんだけれども、御繰り合わせをお願いして、兎に角合楽で言われる意味は分からんけれども、成り行きを大切にしていかなければならんという事に本気で取り組ませて頂いとったら、思い掛けなくお誘いを受けて、今日は御参りが出来たと言う人がございました。
終ってから申しました事でしたけれども、そういうようにその時々の成り行きを尊ぶと か大切にするという事の中に、例えば対人関係もあると思うですね。自分の嫌いなタイプの人が、もう側近するというのじゃなくて、成り行きそのものを大切にするというのですからね。やっぱりその人を大切、大切にするというても、神様の目から御覧になったらこういう人でもという頂き方をして、成り行きを大事にしてまいっておりましたら思い掛けない御繰り合せの中に御参拝が出来たと、こういうのである。その行き方でね、その行き方そういうそこに焦点を置いてあなたの信心を進めたら間違いないし、一年一年有り難うなっていくよと言って話した事でした、ね。
信心は、も、一年一年有り難うなっていく。信心すれば年を取るほど位がつくものじゃ とおしゃるように、どうしてもこの有り難うなって、最後にね信心の篤い者が真の信者じゃとおしゃるが、その真の信者とは間違いのない本当な事を焦点として出来る出来んは別として、信心を進めていく人が真の信者ですよね。
だから、その辺の所を私共が難しいけれども、そういう所に焦点を置いてね、成り行き を尊ぶとか大切にするという中には、なら事柄だけ問題だけではない。対人関係の場合もある。そういう時に、私共の心の中に「チラッ」動くもの、ね。成程、人間ですからやっぱり人間的な観察を致しますけどもね、この人は悪い人だ、つまらん人だと心にチラッと動いた時に、そういう心に取り組んで、いやいやこれでは稽古にならんというような、その人の心性を見つめていくという事が、私は成り行きを大切にする事でもありゃ尊ぶ事でもあると思うですね。
ですから、そういう事柄とか問題だけじゃないね、対人関係をもね、やっぱり成り行き をそりゃ私共の心に動く、チラッと動くもの、ね。この人は悪い人だ悪い奴じゃなと心にチラッと動く時にもですね、その人をもう一辺見直すゆとりというものが、またこの人もやはり神の氏子としての心に見直す時に、初めてその人をいうならば尊ぶ事になり、その人と関係あるならその関係を大切にして行く事が出来るのです、ね。
私共は、どこまでも真の信者を目指したい。それには真の信心をしなきゃならない。も 、成り行きを尊ぶとか大切にするという、そこにいうならば焦点を置くという事は、いよいよ間違いなく一年一年有り難うなっていけれるに違いありませんけれども、その成り行きを尊ぶ大切にするという内容にです、私は今日は人間関係も入ってくると思うんです。私は、今日初めてそこに気が付いた。
私が、あん奴は悪い奴じゃなあとあの人は好い人だなあと思うておるそれをです、なら 好い人を悪い人に思えというわけじゃないけれども、それこそ人を見たら泥棒と思えと。例えば、どんなすました良い人であっても、悪い事をする人がありますからね。人間の見た目にはわからないね。
そこで、私共が、いうなら真の信心を焦点にして信心をさせてもらい、成り行きを尊び 大切にするという事は、いよいよ絶対なもの、真の信心なのですから、それを究めていく過程においてですね、事柄とか問題という事だけでなくね、対人関係の場合もその成り行きを尊ぶ大切にする。その人を大切にする尊ぶ受け方、頂き方というものが出来るような稽古、これは難しいですよ、やっぱりね。本当に悪い人もあります。ですから、それをよく見るという事は難しい事ですけども、その人もやはり神の氏子という見方ね。
そこからわからんけれども、それを尊ぶ見方とか、またそれを合掌して受ける生き方と いうものが事柄の中にも進められていくなら、対人関係の場合でもです、その人を神の氏子としての見方の出来るような稽古ね。いうなら、信心もその真の信心、真の信心と申しますけれども、だから本当に真の信心とはというところに触れて参りますと、今日、私が申しておりますようなね。私は、あの人を軽蔑しておった、見下しておったといったような人が、私共の周囲にはありはせんでしょうか。それを、もう一辺見直すゆとりが信心にはいるのです。そして、それを尊んで、または大切にしていく生き方をね身に付けていく稽古も、またこれは自他共に助かっていく道だと思うですね。
人には悪い奴じゃあると、ずうっとこういうふうに思われ続ける人は、本当に不幸福で す。けれどもあの人は悪い奴じゃあると人が言う人でも、あの人にもあんな素晴らしいところがあると、ま、神の氏子として見る人があるとするならね。自分が助かるだけでなく、その人も助かっていくような働きが起こってくるのです。これは、私は長年の体験で、そういう体験をいくらもしておりますね。
改めて今日は、真の信心の手篤いのが真の信者。手篤いという事は、合楽、合楽精神で すかね。松本先生が、先日のお手紙の中に合楽精神をもって旅行したというね。昨日聞きながら、私思うた。ハハア、合楽精神か、何か、私素晴らしい言葉だなあとね。
だから、お互い合楽に御縁頂いておるから、その合楽精神をいよいよね、マスターして 合楽精神にならなきゃならない中に、成り行きを尊ぶという生き方をいよいよ皆さんが身に付けておいでになるのです。その中に、対人関係も入ってこなならんというのが、今日の御理解じゃないでしょうかね。
ですから、こういう生き方を身に付けて行こうという精進から、必ずね、その生き方で ゆくならばね、一年一年ありがとうなっていく事間違いなしというふううに思います。難しいです。
事柄とか成り行きを大事にするよりも難しいです。自分に関わる人達を、一視同仁に神 の氏子として見る見方というのは本当に難しいです。その人を本当に良く見よう、とても一日二日位かかるです。心の中でそれば頂こうとするとかかるけれども、それはこの人もやっぱり神の氏子だと自分の心にすっきり、こう頂けるまでには時間がかかりますけれども、なら、それこそが成り行きを尊ぶ、大切にするという事になるのじゃないでしょうかね。 「どうぞ」